#6 そして母がいない生活が始まった

 父、太郎くん、私だけの生活が始まった。

 いい年をして独身、家のことは母任せだった。太郎くんを迎えた時に“マタニティブルー”になったように、「太郎くんを育てること=子育て」だった。まさにその時、結婚適齢期であった。当然、長い付き合いの彼Nとの結婚を考えた時期はあったけれど、いろいろタイミングを逃し、ここまで来てしまった。その間、自分の趣味や旅行を優先して、自由に過ごしていた。

 だが突然、母が倒れ、自分のことは強制的に後回しになった。

 母は救急病院に搬送され、原因不明の発熱と発作、コロナではなかったが、肝臓が腫れているという漠然とした診断が下された。一番ショックだったことは、C R Pという炎症を現す数値が、健康な場合は1未満の数値であるのに対し、32という、致死レベルの数値となっていたことだった。
 入院初日は意識不明、もういつ死んでもおかしくない状態だった。母の心配と、家のことをやらなければならない義務感が同時に芽生えた。
 それは、

「母が無事に我が家に戻り、太郎くんと楽しく過ごす」

 そのために私は全力で、最善の治療ができるよう母の病状を把握する。そして、太郎くんを支える。母のいない淋しい思いを絶対にさせない。私が守る。

 そして、目標は続く。

 母は75才。平均寿命からすると、あと10年。
 太郎くんも12才。平均寿命からすると、あと2、3年……
 母も太郎くんも、いつ何が起きてもおかしくないシニア年齢ではあるけれど、今死ぬにはまだ早い。
 だから、

 「太郎くんが老衰で亡くなる日まで、母と年相応に健康でそれなりに楽しく過ごしてほしい」

 贅沢は言わない、ただいつも通りに過ごしてくれれば。だから、私は、母が家に戻ってくるまで、家をいつも通りに維持して、太郎ちゃんの健康状態に気をつける。それが私の使命だ。

 不謹慎な発言であることは重々承知だが、コロナ禍で助かった。在宅勤務ができるからだ。メイクと通勤時間は、洗濯とご飯作りに回せた。パソコンをリビングに置いて、太郎くんはソファーで寝て、昼休みは父のご飯を作る。

「お姉ちゃんが、台所に立っているよ!」

 父はびっくりして、太郎くんに言った。太郎くんも同じことを思っていたに違いない。そりゃそうだ。自分でもびっくりしているのだから。やればできるんだなと。慣れないことばかりで大変だった。家事の引き継ぎもできないまま、私は台所の主となり、洗濯洗剤も容器と詰め替えした洗剤液がバラバラで、どれを使うか全くわからない状態だった。それが漂白剤だったら大変だ。まだたくさん残っているものもあったけれど、全部買い直した。

 そんな初歩的なことから、すべてが変わり始めた。それは太郎くんのルーティーンも変わることを意味した。

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