#10 ちょっと待って!

「クーン、クーン」
「ちょっと待って!」

 ほら始まった。太郎くんはおしゃべりだ。トリマーさんからも「太郎くんはお話上手だね」と可愛がられ(うるさいってことだった?)、いつも人気者だった。
 太郎くんがこれまでお留守番したことは5本の指で足りるくらいしかない。しかも最大3時間くらいなものだった。常に誰かがいる状態だから、自分も会話するのが当たり前になっていた。だから、前頭葉もかなり発達していたのではないかと思う。感情表現も豊かだったし、その分恐怖を感じることも多かった。

 だから、自分のルーティーンが少しでも狂うと、すぐに文句を言った。
 11月最後の金曜日、この日もそうだった。

いつもこんな甘い声でおしゃべりしていた太郎くん。

 私は、午後1時より、リモート会議が入っていた。それがかなり長引き、太郎くんのおやつ時間の2時がとっくに過ぎていた。父は熟睡中だった。太郎くんは父のベッドから飛び降り、「クーン、クーン」と言いながら、隣の私の部屋のドアをノックしていた。

「わかったわかった、もうすぐだから」
「ちょっと待って!」

 マイクをオフにして、太郎くんに告げた。
 最初は少し我慢していたが、だんだんぐずってきた。幼い子のそれと同じだ。「クーン、クーン」が、やがて大きいトーンの「フ〜〜ン!」に変わった。これが終わると、「ワン!」とドスの効いた声で鳴く。そうなったら太郎くんはブチギレだ。それまでには終わらせねば。

 セーフ。「ワン!」の寸前で、おやつをあげることができた。美味しそうに食べている。あー、よかった。

太郎くんは、絹紗が大好き!

 しかし、この会議後、今日中に資料作成をせねばならなくなった。その間、父が起床し、太郎くんと早い夕食を食べて散歩へ行った。私はその間、仕事に集中したが全く終わる気配がない。
 そのため、散歩から帰った後の太郎くんの「遊ぼう!」に応じることができなかった。明かに、太郎くんは不貞腐れていた。気がかりなこともあったので、猛スピードで仕事を終わらせた、というより切り上げた。

 そして慌てて母の病院へ行った。なぜならこの日は母からのラインが届かなかった。それまたずっと心に引っかかっていた。結果、母のスマホが意図しないところで機内モードに切り替わり、データの送受信できなかったというオチだった。その日は母と少し話しながらスマホを直し、まだCRPが高値を示す原因が特定できないため、明日も検査があることを母は愚痴っていた。愚痴が出たなら良くなってきたのかなと私は少し明るい気分になり、買い物もせずにすぐに帰った。少しでもズレ込んだ時間を取り戻したかった。
 しかし自分の夕食も、太郎くんの夜遊びも結局ズレ込んだままだった。
 そしてやめればいいいのに、寝る前に私は太郎くんの真っ黒になった耳の掃除をした。ますます嫌われた。それからだ。翌日もその翌日も、太郎くんはつれない態度だった。

 今までこんな太郎くんを見たことがなかった。

 ちょうどその頃、東京でのGOTOキャンペーンが賑わっていた時だった。私は誕生日を高級ホテルで祝おうと東京が追加された10月に即予約していたのだった。しかし、母が入院という不測な事態となり、泣く泣くキャンセルした。
 その予定がなくなった週末を、私は太郎くんに仕える週末と決めた。罪滅ぼしだ。はい、太郎くん。ごめんね。今日は、「ちょっと待って!」って言わないよ。家事もほどほどに、母の病院は父に任せ、私は太郎くんのそばにいた。遊んだ。散歩に行った。

 うん、私の顔をちゃんと見てくれる。許してくれたみたい。
 ほっとした。

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